練込み行列の起源と概要
大原練込み行列は安産の神として広く信仰を集めている大原神社(京都府有形文化財指定)『仁寿2年(852)鎮座』の本殿が、 寛政8年(1796) に当時の綾部藩主九鬼氏によって、再建されたのを祝い始まったとされているが確実なことは分かっていない。 唯、大原の地は京街道に沿って開けた宿場町であり、それにふさわしい芸能ということができる。毎年祭礼(当時は4月23日、現在は5月3日)が行われるようになった ことも定かでないが、鳥居・石段・火の神神社等がそれぞれ建築される毎に、練込みが行われてきたようである。 毎年行われるようになったのは大正中期~昭和12年頃までである。その後戦争により中断し、再開したのは昭和23年からである。
昭和23年に復活した大原練込みは、昭和25年と26年には例祭で盛大に行われたが、昭和30年の1100年祭まで途絶えた。 その後は、昭和49年の京都府主催「ふるさと芸能祭り」での舞台発表、昭和58年の三和町芸能発表会での公開発表で行われだけである。
昭和58年の公開発表を機に「大原練込み保存会」が結成され、ふるさと大原の民俗芸能保存に向け取り組むこととなり、 その年の例祭で行なわれものの、毎年行うことの経費や高齢化に伴う人員不足など過疎地が抱える課題のため、平成14年の1150年祭例祭を最後に行われていない。
練込み行列の特色
華やかに飾りたてた屋台(引山車)を中心に小奴・大奴の勇壮な所作、三味線・太鼓・笛・音頭による賑やかな囃子、前・後太鼓による華麗な撥さばき、 総勢40余名(昔は50余名)の氏子により、大原神社からお旅所までの道程を練り歩きます。
子奴は、挟み箱(衣服や道具を入れた箱)2つ、熊毛、鳥毛、台傘、立傘が各々1つ、槍2つで行列をなし、 道程で「エー トサー エイ」の掛け声とともに所作を繰り返します。
大奴は、3人一組で「エー トサー エイ」の掛け声で重さ十数キロもある熊毛を振り回します。 「ハッー」の掛け声で相手に熊毛を投げ渡します。
音頭と前太鼓と笛は、引山(だし)練込み屋台の前に位置取り、唄や笛に合わせて締め太鼓を叩きます。
後太鼓と三味線は練込み屋台の後ろに位置し、三味線に合わせて締め太鼓と平釣太鼓を叩きます。
練込み行列に続いて、稚児行列と御供行列が続きます。
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