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大原志
大原神社に参詣することは「大原志(オバラザシ)」と呼ばれ、現在でも俳句の季語として使われており、 「をしなべて人の心や大原志 -未得-」(『日本大歳時記』)などとも詠まれ、特に祭礼の当日などには参詣者も多かったようです。 また、元禄時代の浄瑠璃、近松門左衛門の「源三位頼政」の段にも大原志の件があり、江戸時代初期にも名が馳せていたことが伺えます。

平成14年(2002年)には、大原神社鎮座1150年祭を機に「大原志」を現代に蘇らせようと、山内利男 氏を中心として『よみがえれ大原志』として、 俳句の募集をして大原神社に掲載するとともに優秀作品の選出を行いました。この取り組みは、その後も毎年、大原神社例祭に合わせて行われています。 また、「大原志」を地元でも継承しようと、俳句について学ぶ会を開催しています。
 

大原志赤子はじめて雲に会ふ
この句は、「第26回国民文化祭・京都2011」の「文芸祭 与謝野蕪村顕彰俳句大会」に投句された1万余句の中から京都府知事賞に選ばれた山内利男さんの俳句です。
 
大原練込み行列
練込み行列の起源と概要
大原練込み行列は安産の神として広く信仰を集めている大原神社(京都府有形文化財指定)『仁寿2年(852)鎮座』の本殿が、 寛政8年(1796) に当時の綾部藩主九鬼氏によって、再建されたのを祝い始まったとされているが確実なことは分かっていない。 唯、大原の地は京街道に沿って開けた宿場町であり、それにふさわしい芸能ということができる。毎年祭礼(当時は4月23日、現在は5月3日)が行われるようになった ことも定かでないが、鳥居・石段・火の神神社等がそれぞれ建築される毎に、練込みが行われてきたようである。 毎年行われるようになったのは大正中期~昭和12年頃までである。その後戦争により中断し、再開したのは昭和23年からである。

昭和23年に復活した大原練込みは、昭和25年と26年には例祭で盛大に行われたが、昭和30年の1100年祭まで途絶えた。 その後は、昭和49年の京都府主催「ふるさと芸能祭り」での舞台発表、昭和58年の三和町芸能発表会での公開発表で行われだけである。

昭和58年の公開発表を機に「大原練込み保存会」が結成され、ふるさと大原の民俗芸能保存に向け取り組むこととなり、 その年の例祭で行なわれものの、毎年行うことの経費や高齢化に伴う人員不足など過疎地が抱える課題のため、平成14年の1150年祭例祭を最後に行われていない。

練込み行列の特色
華やかに飾りたてた屋台(引山車)を中心に小奴・大奴の勇壮な所作、三味線・太鼓・笛・音頭による賑やかな囃子、前・後太鼓による華麗な撥さばき、 総勢40余名(昔は50余名)の氏子により、大原神社からお旅所までの道程を練り歩きます。
子奴は、挟み箱(衣服や道具を入れた箱)2つ、熊毛、鳥毛、台傘、立傘が各々1つ、槍2つで行列をなし、 道程で「エー トサー エイ」の掛け声とともに所作を繰り返します。
大奴は、3人一組で「エー トサー エイ」の掛け声で重さ十数キロもある熊毛を振り回します。 「ハッー」の掛け声で相手に熊毛を投げ渡します。
音頭と前太鼓と笛は、引山(だし)練込み屋台の前に位置取り、唄や笛に合わせて締め太鼓を叩きます。
後太鼓と三味線は練込み屋台の後ろに位置し、三味線に合わせて締め太鼓と平釣太鼓を叩きます。
練込み行列に続いて、稚児行列と御供行列が続きます。  動画はこちら
 
子奴
子奴
大奴
大奴
音頭
音頭
前太鼓と屋台
前太鼓と屋台
後太鼓
後太鼓
三味線
三味線
稚児行列
稚児行列
御供行列
御供行列
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