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大原神社

大原神社の歴史
大原神社に関しては、『三和町史(平成7年発刊)』に詳しく記されており、ここでは主に本史より引用しました。
創建と縁起
大原神社鳥居
大原神社は安産の神として広く信仰を集めています。創建は『丹波誌』によると仁寿二年(852年)3月23日、桑田郡野々村(現南丹市美山町字樫原)に鎮座、 弘安2年(1279年)9月28日に大原へ遷座、応永4年(1379年)10月13日に社殿が整ったとされています。しかし社伝によると創建は仁寿二年と伝えられ、元宮の大原神社(美山町鎮座)は大化元年(645年)の創建と言い伝えられています。
大原神社には『大原神社本紀』という大原神社の縁起を書き綴ったものが5点残されており、大原神社が安産の神として信仰を集める所以として、 「邪那岐と伊邪那美の神は天下万民を生み出した父母であるのだから、天下太平・国土安隠・宝祚長久・五穀能成・万民豊饒を守護すること、 他所の神社に勝り、天下万民を生み出した神なので、ことに婦人の安産を守る神なのである」と記されています。


遷座については、天児屋根命が宮地を求めてここ大原山麓の水門の瀬に来られたときに、水底から金色の蛙が現れ、 『私はこの水底に住んで長くこの山を守っており、嶺には白幣・青弊があり、いつも光を放っており、まさに神が鎮座されるべき霊地であります』と頼んだと記されています。
また、遷座のときの様子について、神が黄色い牛に乗って遷られ、それ故、「お釜さん」の平らな石の上には今でも牛の蹄の跡があると記されています。
大原神社は「天一位」という社号をもち、江戸時代には札にも刷り込まれていた。本紀によると、「一乾天の方位に御鎮座成ましまし、此謂を以て其位を尊て天一位大原大明神と社号を崇奉るものなり」 とある。乾の方位とは陰陽五行の方位で北西の方角にあたり、平安京から北西の方角をさす。
 
九鬼氏の信仰
綾部に九鬼氏が所領を拝領するのは寛永10年(1633年)ですが、寛文11年(1671年)に藩主隆季から黒印地として高三石の社領が保障されました。 社伝によると、大原神社の社殿や古記録は明智光秀が福知山に拠ったころに兵火に罹り消失したと伝えられ、 寛政8年(1796年)の社殿の再建までの間に九鬼氏により社域が整備されました。歴代藩主の参詣も頻繁で、江戸への参勤の中途は通行路でもあるため必ずお参りし、旅の安全祈願が行われました。明和4年(1767年)の九鬼隆貞の参勤にあたっては、 2月6日の四ツ時(午前9時半)ごろに大原村へ入られ、まず茶屋で上下100人が弁当をとられました。殿様のお迎えとして大原村庄屋が、 塩ケ崎(大原と台頭の境付近、現大原御供田付近)まで出向き、社参終了後、下向の節も同所までお見送りをし、川合組大庄屋は大原蔵の下(お旅杉の下辺り)まで見送り、 神主の和泉と日の社祢宜六太夫は宮坂口で出迎えて、町はずれの御蔵の下まで見送りました。
  綾部藩では、干ばつや飢餓、藩主や側室の病床のさいはかならずといってもよいほど代参を送り祈祷の執行を命じており、 天保10年(1839年)3月には江戸藩邸に大原神社が勧請されています。九鬼氏の縁故によると思われる諸大名や公家の代参も宝暦年間 (1751年~64年)ごろから社務記録には記載されはじめ、多数の代参・寄進があったことがわかります。 代参の理由のわかるものはすべて安産祈願の代参で、宇和島藩伊達氏の奥方の安産折祷のための代参が送られた記録もあります。 さらに、宇和烏藩の家臣横山勝左衛門からは、5月20日付で無事安産の報告の書状も届いており、安産祈願の参詣者には「守砂」がわたされ、 出産後には返納されています。
御供田風景
御供田風景
本殿建立
現在の大原神社の本殿は、寛政8年(1796年)に再建されたものです。「大原神社社務記録」には再建にいたる動きが記録されています。
  天明4年(1784年)に相談の上、本殿建立の願書を差し出したところ、天明5年(1785年)2月に再建の許可があり、 氏子中へ再建許可の披露がなされ、同年3月の晦日には末社の大川社の上屋の棟上げが、若狭の大工2人によりおこなわれました。 4月にはいると1日に大原村の再建の奉賀がよせられ、6月には神主の兵庫と大原村の友八両人が、下川合村をはじめ郷中の村々へ奉賀初めに廻っています。
  寛政4年(1792年10月6日には「地築」初めがおこなわれました。地築は、地固め・上地の造成工事をさします。 「地築」の初日には「祢込」とあります。この「祢込」については、大原村のぼり・屋台、木挽より作り物、台頭より作り物、 上川合より引き山、岼村より引き山、大身・加用・猪鼻からも引き出、下川合よりは「祢り物無之」、竹田三ヵ月村からは「祢り込歌ふき」、 さらに綾部から200人ばかり「祢込小供かふき」、他にも黒井や水呑、近江からものぼりや「祢り込」があったとされています。 これらは、今日にまで伝わっている「練込み」のルーツにあたるものではないかと思われます。 本殿の再建にあたっては大原村のみでなく、広く各地から引き山や幟、屋台が集まって、盛大に「祢り込」や歌舞伎がおこなわれた様子がうかがえます。
 
祭礼
大原神社に参詣することは「大原志(オバラザシ)」と呼ばれ、現在でも俳句の春の季語として使われており、 「をしなべて人の心や大原志」-未得-(『日本大歳時記』)などとも詠まれています。特に祭礼の当日などには参詣者も多かったようで、 参詣者の増加にともない、道中に悪さをする者があらわれたために、綾部藩ではお達しをだし、取り締まりにあたったようです。
  安政2年(1855年)3月10日から14日までの5日間、大原神社一千年祭が執行された。一千年祭にあたっては、木版刷りで「一千年御鎮祭御寄進帳」が作られ、 広く寄進を呼びかけました。一千年祭の執行にあたっては、京の吉田神社から神官が招かれましたが、 その対応はじつに丁重で、代表が京へ出発し、菓子料として2朱と1分が献上されました。神官の他に侍7名、下部が4人で出京し、園部で一泊しました。 大原村からは年寄と和泉守が桧山のとうふ屋まで出迎え、戸津川峠や大原中津戸口でもそれぞれ出迎えました。
綾小路大原神社との関係
大原神社にある江戸時代の奉納絵馬や石造品には宇治や伏見などの寄進者が多いことが目につき、広域的に信仰があったことがうかがわれます。 その信仰の社勢を延ばすための手段として、午王札の配布があり、配布地域を檀那場と呼び、各地におかれた神子(巫女)がその任にあたりました。

山城地域の配札場の拠点は京綾小路にあり、大原神社と称し、神子の森氏が代々神職をつとめました。それぞれの配札場からは、春と秋の2回、米9石ほどの 初穂運上米が納められましたが、大原和泉守から土佐守への代わりのときに、京綾小路からの運上米が停止するという事態となりました。 大原神社文書によると、元禄年中までは上納されていましたが、祖父の大原和泉守が死してのち、しばらく名跡がないうちに運上米を納めないようになり、 享保4年(1719年)に養子である大原土佐守が家督を継いだのち、京綾小路へ催促をしたが、一向にとりあってもらえませんでした。そこで、吉田神社へ訴えたところ、 かっては初穂米を差し出していたが、その件についてはすでに了解したことである、とした上で、綾小路の札を配っているのだから上納はする必要はないとして、 吉田神社のあつかいにより、土佐は午王に「大原神社」と札に「天一位大原大明神」と書きつけること、 京綾小路は午王に「大原神社」と札に「大原大明神」と書き記し区別し、山城国では相対で配布することとなりました。

この時から、ここ大原神社と綾小路大原神社とは疎遠になってしましましたが、2001年(平成13年)に多数の関係者により両社の交流が再開し、 2002年(平成14年)の大原神社鎮座1150年祭には、祇園祭中に綾小路大原神社を会所とする綾傘鉾保存会による巡行も行われました。

大原神社の由緒略記
※PDFファイルが開きます。

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